ヨハネよる福音書 8章21~30節
高松教会 村上貴志
「わたしはある」は、出エジプト記3章に出て来る言葉です。
モーセが、「神さまから」召しを受け、どのように人々に伝えれば良いのかをお尋ねした時、『わたしはある』と言うお名前を教えていただいたのです。
神さまが、人の前にその姿を現された時に、行く道を示される時に、護りと祝福を約束して下さった時に、
語られたお名前が、「わたしはある」と言う言葉だったのです。
ユダヤの人ならば、誰しもが、「神さま」の事で有る事を知っている言葉でした。
イエスさまは、24節で、「イエスさまこそが、『わたしはある』ということを信じないならば、
あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」と、語られました。
「罪」祭司や律法学者たちは、モーセの掟を伝える者・守る者でありましたが、「信じない。」
いえ、信じたくなかったのです。
全ての働きが、イエスさまの存在を証ししているにも関わらず、この大工のこせがれが、人々の信望を集める事が、…。
頭の中では、知っている事なのに、そうとしか考えられないのに、「わたし・私たち」という思いの中では、受け入れることが出来なかった。
そのような矛盾の状況。
それを、打破するためには、その原因を無くしてしまうしかない。
自分たちの誇りの為に、イエスさまを通して神さまの御姿を見ているにも関わらず、それを無かった事にしようとする。
「神さまから離れてしまっていた」それこそが、「大きな罪」なのです。
21節では、「わたしは去って行く。」と、イエスさまは語られますが、
「イエスさまが、見捨てて去って行く」のでは、有りません。人が離れるのです。
イエスさまは、悔い改め頭を垂れ、祈り讃美しながら歩む人と共に神さまの国へと進まれているのです。
全ての人を招かれて。キリストは、いつも私たちと共に居られると、初めから語られています。
人の思いに関わらず、…。 宣言されているのです。