ヨハネよる福音書 8章12~20節
高松教会 村上貴志
今日は、「わたしと共にいてくださる」。
聖書の箇所は、マタイによる福音書とヨハネによる福音書と異なっているのですが、非常に似た、説教題となっています。
イエスさまを起点として、先週は、「わたし(イエスさま)は、いつもあなたがた(弟子たちや世界中の神の民)と共にある」
そして、今週は、「神さまが、わたし(イエスさま)と共におられる」
イエスさまを真ん中にして、「神さま=イエスさま=私たち」という確かな繋がりを形成して下さっているのです。
神さまから離れてしまった民は、長い旧約の間、神さまを求めましたが、共に歩む事が出来ませんでした。
「神さまから離れる」という罪。「離れる」という罪を持つ人は、自分の力で、神さまの元に歩む事は困難なのです。
「離れる。いえ、離れたい」という事なのかもしれません。その罪を持つ民が、「近づこう」としても、「心は近づいても、身体が離れようとしてしまう。
あるいは、身体が、行いを近づけようとしても、心に妨げを持ってしまう」
いろいろな努力をするのですが、「神さまと共にある」という事は、難しい事なのです。
いえ、人の力と努力では、できないことなのです。祈りによらなければ、…。
難しい故に、人がそれを行うことが出来ない故に、神さまは、その間を取り持つ仲保者としての神の御子イエス・キリストを、地上に遣わして下さったのです。
仮庵の祭り。別名、導きの光の祭り。光に導かれるイスラエル。神の民がエジプトからの脱出を思い出す時に、イエスさまは、重ねて伝えたのです。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」イエスさまが、光として、神さまの国へと導く事を伝えられたのです。
宣言されたのです。
その時には、神さまから離れた人が、光である救い主の働きによって、神さまの国へと招かれ、そこに入るのであります。