ヨハネによる福音書 7章32~39節
高松教会 村上貴志
聖書には、人の想像と限界を超える大いなる神さまとキリストからの恵みが記されています。
神さまを信じる人、イエスさまに従い続ける人。
それらの人に、大いなる導きが与えられているだけでなく、そうでない人にも。
イエスさまと敵対する人、神さまの御業を妨害しているように思える人にも、神さまは憐れみと祝福を与えられているのです。
今日の聖書に出て来る、ファリサイ人たちに対しても、そうなのであります。
聖書を読み、歴史の斜め上から、この時代を見る者からすると、この人たちは、…。
「主の働きに抵抗している。いえ、邪魔をしている。赦すべき人では無い。」とも思えるのです。
現に、祭司長たちと結託して、イエスさまたちを捕えに来ているのです。悪い人にしか見えません。
口に出してはばかられるような気持ちが、湧き上がるのです。彼らの罪こそ、「十字架につけろ」と、叫ばれて当然だと思うのです。
ですが、イエスさまは、そのような人たちのために、「黄泉に降り、三日目に死人の内より甦られた」のです。
そのお働きは、ファリサイ派の人たちにも現れました。
彼らの日常の生活は、満ち足りていた。肉体が、飢えや渇きを覚えるような事は無かった。
しかし、心が渇いていたのです。神さまより、恵みの種を蒔いていただいていたにもかかわらず、渇いている故に、その種は育たず、神さまの栄光を現す花を咲かせる事も無かった。
御国を継ぐと言う、実を成らす事は、無かったのです。
その渇く人たちを、イエスさまは、呼び集められました。敵対者であっても。
そして、命の水を分け与えられ、福音のために用いられたのです。
心を渇かせ、イエスさまに会いに来る人は、全て、その内に抱える苦しみや問題をも用いて下さり、神さまの栄光を現す者へと変えられるのです。