ヨハネによる福音書 6章60~70節
高松教会 村上貴志
弟子の中で、イエスさまの言葉を聞いて、つまずきをもち離れた人たちがいました。
その人たちも、神さまを熱心に信じていました。モーセが、神さまからいただいた古い約束を心の中に抱き続けていたのです。
神さまからの約束を信じ続ける。そして、神さまからの新しい約束の救いを知った時。信じる事が出来なかった。
彼らは、一度その約束を福音として受け取りました。大いなる喜びとして、受け入れました。
ですが、その中に、異なる思いも存在していたのです。
先に知った約束を「神さまが、これを守って行きなさい。」その教えを、信仰生活の中心に置いてしまった。こちらに、重きを置いてしまったのです。
不思議な話です。神さまからの良き知らせ・福音は、…。
「人と神さまの隔たりに、仲保者として、神の御子のキリストが立てられ、神さまから離れていた罪を抱き続けた人が、神さまとの交わりを回復した」という喜びの知らせであったのに。
イエスさまの出来事。弟子たちを通して、使徒たちを通して、教会を通して、確かに聞きました。そこに神さまの約束と祝福を感じました。信じました。
けれども、人は、「モーセの律法」という目に見える、確かに存在する約束を信じたい。より頼みたいと思ったのです。イエスさまによる「罪の赦し」は、見えないと感じて。
「見ないで信じる信仰」は、トマスに対して言われたことではなく、ヨハネによる福音書では、ここでも、語られているのです。
でも、「受け入れることのできない人」がいる中
「どうして、受け入れることが出来たのでしょう?」素直に受け入れたのでしょうか?
それは、…。 受け入れるしかなかったからです。
自らの力の無い事を知っている者には、イエスさまを通しての神さまの国への道しかないのです。