ヨハネによる福音書 6章16~21節
高松教会 村上貴志
どこかの国の研究者は、真面目に「イエスさまが、湖の上を歩かれた出来事」の解析を行っています。
「イエスさまが、どうやって湖で沈まずに、水面上を歩くことが出来たかという事」をです。
この人たちの事を、どう思われますか?
「馬鹿な事を」でしょうか?
それとも、「一日も早く、結果を」でしょうか?
私は、真実だと思っています。では、それをどう伝えましょう。
知らない人にどうやって聖書に記されている神さまとイエスさまの業を分かち合いましょうか。
なかなか、私の言葉は伝わらないのです。
そのような事を思うと、先ほど言った「科学的に事象を説明しようとする試み」は、
一笑に付すことでは無く、とても、大切な事なのかもしれません。
「神さまを知らない人に、神さまの業を伝えようと真面目に努力しているのですから」
では、私は、「真面目に、伝えるため」に、取り組んでいるのでしょうか?
「聖書には、こう書いてあるんです」で、済ましていないだろうか?
それで、私が語った人に、伝わったのだろうか?信じる事が、できるようになるのであろうか?
世界には、聖書の出来事に、何を言われようと一生懸命に取り組んでいる人たちがいるのに、
「私が信じているので当たり前」から、抜け出せているのだろうか?
「当たり前」とした事が、主が語りかけて下さった「わたしだ。恐れることはない。」という言葉を、
奪い去ったのではないでしょうか。
伝わっていないのは、話法の問題ではなく、私の言葉から、「わたし」である神さま・イエスさまが、失われていたからかもしれません。「どうしましょうか?」どうしようも有りません。大変です。
「当然です。」ではなく、「大変です。」そう思うのです。
その時に、再び「わたしだ。恐れることはない。」という声を、私たちは、聞くのです。