ヨハネによる福音書 5章 41~47節
高松教会 村上貴志
「クリスチャンなのに。」このような言葉を、私たちは、耳にしたり、口に出してしまったりします。
この言葉は、幾通りかの意味を持ちます。
未信者の方が語られた時は、「信仰を持っているのに?」という意味でしょうか?
そのような人たちが、呟かれる時。
おそらく、聖書の神さまを信仰する人たちに、特別な思いを抱いているのでしょう。
クリスチャンは、毎週礼拝に行く。聖書という目に見える手に取れる信仰の書物を持っている。
腹を立てる事も怒る事も無いし、全ての人と分かり合える。
清く正しい生活を送っている。
妙な期待感や人物像が、その想像した姿と違うと思った時、「クリスチャンなのに?」と、疑問を持つのかも知れません。
教会においても、「クリスチャンなのに」。
それは、相手の残念さを語っているのではなく、「自分の方が上だ!立派な信仰者だ!」と、
誉れを受けたいのでそう呟くのです。神さまの目から見ると、とても残念なことです。
人同士の比較から、神さまに認めて欲しいと、願う思いだからです。
それらは、主の祈りの一文「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」という、
祈りを忘れているからです。赦されたにも関わらず、赦すことを自分への誉れの後ろに置いて忘れてしまう。
自らの思いから、「神さまへの愛」を、無くしてしまうのです。
イエスさまは、その影ある姿を御自身の光によって、明らかにして下さいました。
信仰者として一番でなくとも、誰にも讃えられる事が無くとも、私たちは「神さまへの愛」を、
誉れを期待することなくこの地上で現すことが祝福された歩みであることを教えて頂きました。
天に宝を積む歩み。イエスさまが共に歩んでくださっています。
私の内に、「神さまへの愛」が中心に据えられるよう願って、歩みを進めたいと思います。