ヨハネによる福音書 4章43~45節
高松教会 村上貴志
私たちは、目の前で語られている事を信じているでしょうか?
その聞いたことを、周りの人たちに自分が話をした時、信じてもらっていると思っているでしょうか?
時に、伝えている御言葉が、「空回り」している。
語りかけた御言葉の種が、地に蒔かれず、空の上へと飛び去っていると思える事を、我々は経験するのです。
しかし、同じ話でも、異なる権威を持つ方が語られたならば、よく伝わる場合も有ります。
人は、目の前の人を見て、話を聞いてしまうからです。
30歳と言う働き盛りで家族を置いて出て行ったイエスさまの話。周りの人々は、聞く耳を持たなかったかもしれません。
しかし、神殿で素晴らしい業を成し遂げたイエスさまの話は、喜んで受け入れた。
人の思いが時に変わる事を、イエスさまは、御存知でした。
ですから、「敬われない」と、はっきり言われたガリラヤに、時が来て、訪れたのです。
以前に「受け入れられない」と、突きつけられた所に、…。
私ならば、足を向けない事でしょう。「空しさ」しか無いですから。
イエスさまは、人の思いが、時に変わる事を御存知でした。
ですから、新しい道を示して下さいました。
神殿での働きを聞いた後(勝手な理由)であろうとも、そこに信じる人が起こされた時。
神さまに備えられた人のいる所で、主は、必ず働かれたのです。
故郷では、私の信仰が明らかにされないと思う時。
私たちは、エルサレムではなく、教会で。
私の本当の姿を見ない人たちに、教会に満ち溢れる、主の証しをなす私の姿を見ていただきたい。
ここで、主の栄光を感じてもらいたい。
生き生きと信仰を讃美する人たちの姿を目の当たりにするならば、私の内にある同じ証しも、
大切な人たちの思いの内に、届くことでしょう。留まる事でしょう。