ヨハネによる福音書 4章1~15節
高松教会 村上貴志
イエスさまは、ガリラヤへ行く時、サマリア地方を通って行かれました。
サマリヤは、ユダヤの人が忌避する地域でした。
4節では、「サマリアを通らねばならなかった」と記されています。
イエスさまがそこに行かれる事によって、大いなる福音が現れる事を教会には、知って欲しかったのです。
そこは、イスラエルにとっては、忌むべき場所でしたが、そこにはヤコブの井戸。
神さまが、信仰者に与えた井戸のある場所でした。
そして、その井戸が枯れる事無くそこに有り続けたと言う事は、そこには、まだ、神さまに対する信仰が残されていたと言う事です。
ヨハネの教会では、そのような民こそが、今、教会に集まっている人たちだと言いたかったのかも知れません。
この女性の応答は、…。
強い迫害を受けているヨハネの教会に集う人たちの思いであったのかも知れません。
イエスさまを信じて、教会に集まり信仰の歩みを送っている。
しかし、…。ユダヤの神殿は、それは、神さまの前では相応しくない信仰だと弾劾する。
イエスさまに対する信仰を持つゆえに、社会的な交わりからも阻害されている。
信仰をもっていても、信仰者とは認められない。
祈りを捧げても、それは、神さまには、取り上げられる事が無いと周りから言われる。
それは、飲んでも、飲んでも、渇く水と同じであります。絶望の繰り返しかも知れません。
ユダヤの社会にあって、ヨハネの教会に集う人たちは、そのように思っていたのかも知れません。
その事に対して、ヨハネは、「主イエス・キリストに従う信仰こそ、まことの礼拝を行う者である」と、伝えるのです。
なぜならば、イエスさまが、十字架の上で「わたしは渇く」と、私たちの重荷を背負ってくださったからです。