ヨハネによる福音書 3章31~36節
高松教会 村上貴志
神さまの思っておられる事。御旨。御計画。この事について知る人は、誰もおりません。
神さまが、私に何をさせようとしているのか?
どのような役割を与えて下さろうとしているのか?
今の、私たちには、判らないのです。
ですから私たちは、自らの状況を話し、「御旨を示して下さい」と、祈るのです。
私たちは、自らの祈りの最後に「主イエス・キリストの御名によってお捧げします」と祈ります。
ですが時々、「感謝してお献げ致します」と言えない事がある。
わがまますぎる祈りをしてしまうから。心から感謝できない。祈りにならない祈りを捧げてしまいます。
好き勝手を願い、イエスさまの御名を通してそれを祈ろうとした時。省みて、感謝することが出来ない。
そのような祈りは、…。祈らなくても良いのならば、祈らない。願わなくても良いのであるならば、願わない。
しかし、祈らずにはおられない。願わなくてはおられないことがあるのです。
そのようない身勝手な私の祈りを、願いを、執り成すために、イエスさまが、上より来られたのです。
「イエスさまの御名によって」その祈りが、正しいもの相応しいもの・そうで無いもの、
それを選別されるために、イエスさまを経由するのではありません。
祈らずにはおられない身勝手さをも、受け止めでくださるために、
全てをお委ねになったイエスさまの御名によって、それを承認して下さるのです。
私の身勝手な祈り。何も考えていない、まるで眠っているような弱いものであります。
しかし、そのような祈りを捧げる私たちのために、主は、眠らずに、
ずっと執り成しの祈りを捧げて下さっているのです。
そのお姿を思う時。私たちを受け入れるために、独り子なる御子を上より送ってくださった神さまの
愛を思う時。
謝を持って「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と、祈る事が出来るようになりたいと思うのです。