ガラテヤの信徒への手紙 5章2~15節
高松教会 村上貴志 牧師
今日の聖書の箇所には、キリスト者として生きるための大きなアドバイスが含まれています。信仰生活、それは日常生活のことであります。「割礼・律法」と「イエス・キリスト」。「どちらに従うのか?」。
「割礼・律法」は、大きな二つの問題を抱えている。その問題に、人は翻弄されていると言うのです。
まず、一つ目の問題。「割礼・律法は、正しいようで誤っている。」と、言う事。「神さまからの約束」で、有ったとしても、できないことを、行おうとすることは、正しい道ではないと語るのです。だから、今日、神さまの事を知った人たちよ!今更、割礼を受けたとしても、意味のない事だ!その事によって、人が、救いの道に入れられる事は、無いのだから。律法から、神さまの元に歩む道は、無いのです。人の求める正しさによる、罪の赦し・罪からの解放は、無いのです。
では、どうして、そのようなものが、与えられたのか?それは、人が、必要としたからです。「信仰のしるし」として欲しがったからです。「神さまと同じように」という思いを抱きたかったからです。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句で全うされています。しかし、人は「律法」を「私を実現するためのもの」として用いました。本当は、「神さまの愛を実践する」ためのものなのに。律法からの救いに至る道は無いのです。
救われた人は、「律法による隣人への愛を実践すること」が、できるのです。
ここでいう、「律法」とは、「全ての人を愛された、神さまの思い」です。
弱い人と共に歩みを進むように、教えて下さる「神さまの愛」なのです。
神さまの愛を実践するために、召しだされ、キリストに結ばれた人たちに、
パウロは、罪から解き放たれた「キリスト者の自由」を解き明かしたのです。