ガラテヤの信徒への手紙4章21~5章1節
高松教会 村上貴志 牧師
高松教会は、7月7日が創立記念日で、今年で108周年を迎えます。
明治18年頃、日本組合教会今治教会の横井牧師が、伝道開始されてからは、約130年となります。
信仰の種が蒔かれ、少しずつ成長し、花を咲かせ実を成らせ、新たに種蒔く姿にまで、成長させられ、この地で小さな群れが出来たのです。 皆さんは、何度目の創立記念礼拝を守られておるでしょうか? どのくらいの教会の歩みによりそったでしょうか? 共に歩まれたでしょうか? それが、教会の歴史なのです。
今日の聖書の箇所については、旧約聖書の話を通して、再び「律法と福音」についてパウロは、書き記しています。当時のユダヤ教の風習として、旧約聖書を引用して、解き明かすと言う事は、良くある事でした。いえ、正しい事の根拠は、全て、神さまの出来事にある。と、人々は、確信していたのです。
神さまが約束された、「祝福」。神さまは、約束された事を必ず守られます。でも、人は、長く待つことが出来なかった。神さまからの約束を待つことが出来ず、人の思い・知恵で行った事は、あちらこちらで、齟齬をきたすことになりました。
それが、「律法」だと言うのです。その恵みは、約束された恵みを待ちきれないで、人の思いで用いた恵みでした。パウロは、「待ちきれない思いからは、神さまから異なる業しか産まれてこない。」と、語るのです。ただ、それは、自然の業であったとも伝えます。これこそが、罪の働き、神さまから離れた人の弱さからでた歩みだからです。信仰と共に養われた人は、キリストの十字架と復活とによって約束された救いを信じる者となり、イサクのように、神さまからの祝福の約束を受け継ぐ者なるのです。「心惹かれる良い業に誘われる者」ではなく、「神さまの約束の子」として歩みを進めたいと思います。