イザヤ書 56章1~8節
高松教会 村上貴志
聖書には、「異邦人の救い」と記されています。
この言葉を、「イスラエル民族以外」という風にとらえると、「私たちの救い」という預言にも聞こえます。
「この約束は、果たされた!」既に成就したことを知っているのです。
ですが、「異邦人」を、「神の民以外の人たち」と、捉えるとどうなるでしょう。
そこには、「礼拝をしている私たち」も含まれてます。
ということは、「この礼拝に集っている方々以外が、「更に加えて集められる」という事です。
この事を、「感謝だ!」と思われる方が、おられるでしょう。
しかし、「えっ、それは、大変なことだ、焦りを覚える」そう思われる方も、おられるかもしれません。
もし、ここが、一杯になっても。更に、加えて。誰が、相応しい人と認められるのでしょうか。
今の私は、「正義を守り、恵みの業を行う者だ。
安息日を守り、汚す事も無く、悪事に手を付けないような、幸いな者であり、救われた者だ。
完全ではないけれど、後から来る人たちよりは、資格も十分にある神の民で、相応しい」そう思うかもしれません。
でも、イザヤ書に記されている、後から集められる人は、宦官・異邦人。
相応しくないと思われる者であっても、安息日を常に守り、神さまの望むことを選び、その契約を固く守るのであれば、栄誉ある者たちと同じように、栄光が与えられると言うのです。
そのような存在の者を、「更に加えて集めよう」神さまは、そう告げられるのです。
神の園は、定員制や順番ではありません。
ヨハネによる福音書14章に記されているように、全ての人を招くために、神さまは、救い主をお送りになられたのです。
どうしようもできない私たちを、迎えに来てくださったのです。
「そこに入りきらない」人が、そう思うのに、「更に集めて加えられる」時。そこに、新しい相応しい場所が増し加えられるのです。