ヨハネよる福音書 10章22~40節
高松教会 村上貴志
ここに記されている神殿奉献記念祭とは、紀元前164年マカベア家のユダがエルサレムを奪い返し、異国の偶像を打ちこわし、神殿を清めた事を記念する祭りのことです。その時には、異教の祭儀に使用された祭具全てを、捨てて作り変えたと言う事です。人々は、新しい物を携えて、神さまの前で礼拝を献げるようになったのです。
人々は、その時に最大の関心事を聞こうとします。
「イエスよ、あなたは、神さまから遣わされたメシア・救い主なのか?ユダヤの大祭司であり王となるよう示された者なのか?」
そして、信じる者と、信じない者に分けられるのです。人は、こう思うのです。
「信じて救われる人は、こちらの門。こちらを通る人は、神の国への道へ。信じず敵対する人は、あちらの門。あちらを通る人は、滅びへの道へ。私は、救いの門へ。あいつは、滅びの門へ。」
そのような思いが有るのかも知れません。全ての人は、イエスさまの前に集められて、裁きの時を迎える。
ところが、神さまの思いは、イエスさまの業は、そうでは無かった。
イエスさまが、父なる神さまよりいただいた約束は、「すべてのものより偉大」で有りました。
その前に集められた人たちを、「裁く」のではなく、赦す事。
神殿奉献記念祭にイエスさまが、語られた事は、「人の心の中にある偶像を打ちこわし、自らを神さまの前に相応しい者とするために、悔い改めの思いを抱くように。その時には、古い思いを、以前の心の中の祭具・思い、全てを、捨てさりなさい。」と言う事です。
そして私たちを変えて下さったのです。
人々は、キリストの十字架の救いを携えて、神さまの前で相応しく礼拝を献げるようになる。
その事の為に、主は、この地上にその業を現されたのです。