ヨハネによる福音書 6章22~40節
高松教会 村上貴志
「御心を行うために」私たちは、どのような思いに有るでしょうか。
礼拝に出席して、祈りを捧げ、聖書に学び、兄弟姉妹との親しき交わりと奉仕の業を通して地上に溢れる神さまの祝福を共有していく。与えていただいた恵みを通して、主の御救いの業が、私の愛する家族や周りの人たちに広がっていくように、福音を宣べ伝えていく。
それは、「いつも」なのでしょうか?大きな喜びで有るにも関わらず、「時々」となってしまっている。
キリストに出会って。
私の前で、「主の業が展開され、見せていただいた。そして、祝福していただいた。」なのに、どうして、胸を張って「いつも、そうです」と言えないのでしょうか?どこかで、イエスさまを見失っているのでしょうか?
私が手にした恵みは、「朽ちる食べ物」だったのでしょうか? 心や生活の不足した部分に、補いが与えられたから、誤解してしまったのでしょうか?
あの喜びは、主にお会いできた喜びではなく、満たされた平安によるもので有ったのでしょうか?
そうなのかもしれません。
「とりあえず、満たされる祈り。満腹する祈り」を、呟いていました。イエスさまの御名を通して。
その私の姿を見て、イエスさまは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでも無くならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と、言われました。
「いただきなさい。」ではなく「働きなさい」と。「働かれているのは、イエスさま」と思っていたのに、「私にも」。
神の業を私が、行うためには、何をしたらよいのでしょうか?
私の言葉が、どのようなことを紡いでいくのでしょうか?
イエスさまは、教えて下さいます。私たちが出来る、たった一つの「神さまの業を現す方法」を。
力なくとも「信じる事・主と共にいる事」を