ルカによる福音書6章6-11節
高松教会 村上貴志
1944年の敗戦前のドイツ。連合軍の大空襲で廃墟となったドルトムントの教会でも、ペンテコステの礼拝が守られました。イーヴァント牧師は、エゼキエル書37章を読み上げました。「上より来る霊、命と起立と真理の霊によって、心を一つにし、声を合せて、我らの主である神への賛美を響き渡らせよう」と、語ったのです。「霊による励まし」は、いつも、イエスさまさまと共に居る人に起こっているのです。
安息日に語るイエスさまの傍らに来た右手の萎えた人。期待していたが、信じていたのだろうか。
安息日に癒していただけるのか?(それは、禁止行為)何の仕事も、してはならない日なのだから。
苦しい生き方であります。彼の目の前には、望みがある。イエスさまという救いがある。しかし、それを手に取る事ができない。彼は、イエスさまの傍らに居ながら、イエスさまが、共に居て下さっているにも関わらず、求めると言うことを、仕事として放棄したのです。弟子たちは、安息日でありながら、腹が減ったからと言って、麦の穂を収穫し、脱穀し、食べてしまった。「人の子は、安息日の主である」神の御子イエスさまと共にいる喜びに与っていたから、彼らは、恵みを受け取り喜びの中に入れられた。
この手の萎えた人は、イエスさまと共にいたけれども、その救いを信じ切る事ができなかった。
いえ、その様な事、誰ができるのでしょう。信仰は、理解ではないのです。導きなのです。
イエスさまは、彼をエゼキエルの様に、真ん中に立たせます。そして、語られた。霊を吹き込まれた。
主が、掛けられるお言葉は、【第一ヨハネ4:13】神さまに願って送って下さった、聖霊の働きなのです。
「真ん中に出なさい」聖霊の声を聞いた人は、一歩進みだすことができる。【ローマ5:5】「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」から。