マタイによる福音書7章13-23節
高松教会 村上有子
イエス様は「山上の説教」の締めくくり部分として「狭い門」と「広い門」を示しています。多くの人に命を与えたいと願っておられる主が、なぜ「広い」「入りやすい」「歩きやすい」門を用意してくださらなかったのしょうか?私も分かりません。聖書を題材にしているジッドの半自伝的小説「狭き門」を参考に読んでみました。一番印象に残った箇所は、愛し合うジェロームとアリサの二人ですが、キリスト者として歩むことを選び続けるアリサの心の内の苦悩が記されている箇所です。「二人並んでは通れない狭い道…」。「真の門はこの世に執着した愛ではなく、イエス様に愛され、その愛に応えていく愛を持ってのみ、入ることができる門」「誰かの信仰ではない、イエス様との関係を第一にして初めて入ることのできる門」を示していると思いました。
それなら、イエス様の愛は、全ての者に注がれていますから、その門は広くても良いのではないか…と思うのですが…「広い門」は滅びに、「狭い門」は命に通じるとはっきり記されています。この箇所に続く「ニセ預言者」たちは、「広い門」に人々を誘い、キリストの元に行かせないよう、私たちの弱点を突いてきます。楽なこと、便利なこと、簡単なこと、自己中心的な欲を満たしてくれることなどを通してキリストから私たちを引き離そうとします。それゆえに、その道は「広く見える門」です。そして、「狭い門」は本当に狭いのでしょうか?イエス様は、はっきりと示しています。旧約聖書からずっと。「わたしは門です。」聖書にははっきりと主ご自身が「人々が通るべき道」であり、この門を通るとは、どういうことか、簡潔には分かりやすく語られています。門を狭くしているのは、私たちの罪深い性質からです。主は、両手を広げて、「わたしの元に来よ!」と招き続けているではありませんか!