高松教会 村上貴志
ルカによる福音書1章57-80節
世の中には、いえ、私たちが生きるために、進むために、「決断」しなくては、ならない時が有ります。その時に、どのような事を基準に決めているでしょうか? 「神さまの声を聞く?」実際に声を聞く事が良いのですが、「神さまが、どう私に進む道を示して下さっているのか?」と、考える事でも構いません。 従えるでしょうか? 「迷い」も有ると思います。その選択は、明らかに、世の流れとは、異なっている。「神さま、どうしてでしょうか?」不平・不満では無いのですが、心配しています。
神さまを、信頼していない訳では無いのですが、はっきり告白できません。神さまを、知っていながら、恵みを既に手にしながら、「出来ない決断」。
自分が判っているからこそ、口を閉ざしてしまう。
洗礼者ヨハネの父・ザカリアも、主よりの御旨を、受け取る喜びに与る決断ができませんでした。
67節以降でザカリア自身が語ったような大いなる預言に基づいた誉れ。「預言者・主に先立って」 信じられない。主よりのお告げなのに。「年老いた夫婦に。これからどうなるかわからない」それでは、決断できません。世の習わしを考えて。
しかし、「主の御旨」であるならば、「主が、祝して下さる」 それしかないのです。頭の中に巡る不安・心配を主に置委ねした時。ザカリアの口は開かれました。何のために。主の栄光を語るために。
67節以下でザカリアが語りました。
イスラエル民族を愛された神さまの思いを。王を与え、平和を与え、私たちが約束を守るのではなく、「主が、契約を覚えていてくださっている」。
その約束と信頼の中。示され出来事は、明らかにされていく。「全ての人たちのために」主が御手を動かされた時。「出来ない決断」は、無いのです。
私たちは、「伝えていく決断」をするだけなのです。