高松教会 村上貴志
ネヘミヤ記 11章1~36節
「エルサレム」この街の名前を聞いて、皆さんは、どのようなことを想像するでしょうか?「聖なる都」「神殿の再建された町」「過ぎ越しの祭りには、イエスさまが、幼い頃、行かれた町。」(ルカ2:41以下)12歳の時、迷子になって、エルサレムの神殿で、学者たちの真ん中に座り、討論された所。
「神殿が再建された・聖なる都エルサレム」何か、あこがれの場所のような気がする。だから、「ネヘミヤの時代も、そうだったのかな?」と、想像します。
ところが、現実は、異なっていた。エルサレムの中に住む人は少数で、家屋は建てられてはいなかった。人々は、相変わらず自分の町に住んでいた。
どうしてでしょう?忌避する思いが、人々には有ったのかも知れません。蹂躙された町。略奪された町。破壊された町。血塗られた町。善きサマリヤ人への譬で、祭司や律法学者たちが、血を流していた人を避けたように、人々もこの町を避けた。
神殿への回帰。しかし、ゴーストタウンでの礼拝。
求める心と恐れる心を比べる。恐れが上回る。
ここで奉仕する人がいれば。賑やかな町となれば。
しかし、誰も、その役割に付こうとはしない。
必要な奉仕者を、くじ引きで集める事としました。
箴言 16:33 「くじは膝の上に投げるが/ふさわしい定めはすべて主から与えられる。」神さまの決定。 相応しい人が、十人に一人の割合で選ばれたのです。
「貧乏クジ」そうではなく、「選び」。
勇敢な人。責任が有る人たち。祭司・レビたち。 「整えられた人たちよ。聖い人たちよ。集まれ!」
もはや、「血塗られた町」とは、誰も呼ばず、「聖なる都」皆の気持は、変わっていったのです。神さまと共に、神さまを思う気持ちが、イスラエルに戻ってきたのです。
「主の御業に参与する。」ということの示しをいただいた、ネヘミヤ記でした。