使徒言行録 8章26-40節
高松教会 村上貴志
今日は、ペンテコステ礼拝です。使徒たちに聖霊が与えられた記念する日です。
聖霊を受ける。どのような事なのでしょうか?
実際に、白い鳩や舌のような存在を、上より受け取られたと感じる方もおられますし、心の中に、導きの声を聞かれた方(確信)。
その様な思いがされた方(なんとなく)。様々です。
大事な事は、「感じた・信じた」という事です。
そして、それに対して、「応答した・祈った」という事なのです。
【ヨハネによる福音書14:26】まず聞くことが、適えられる事。
聖書の御言葉は、イエスさまが、送って下さる聖霊による解きあかしが無ければ、理解できないのです。
そして、それらの言葉は、【ヨハネ16:13】聞く者に、真理を教えて下さるのです。
私たちの歩むべき道を。
いえ、その前に、私たち一人一人に与えられた喜びを伝えて下さいます。
「神の独り子であるイエスさまが、十字架に架かられた」事。
世の人が関わりが無いと言っても、【コリントⅠ1:18】「救われる者には神の力です」
しかし、信じない人たちが捨てられるのではなく、主は待っておられる。
【ヨハネ14:2】全ての人が、神さまが造って下さり愛して下さった事に気づき、その思いに祈りをもって、応えていくまで。
エチオピアの高官に対する救いの御業もそうでした。
異邦人で宦官で【申命記23:2-3】相応しいかどうか?
問われれば、誰しも小さな者であり、神さまから離れた者。
告白するに、相応しくないものであります。
しかし、私の口は語りだす。
そこに、私の力以上の事が働いている事に気付けば。
私の力では無く、神さまの力が働いている。
思いを向ける者には、必ず、聖霊の導きが与えられるのであります。
そして、自らを省み、へりくだった態度となるのならば、その体が水に沈められ洗われ。
「洗礼」とは、「神の恵みを受けた人の応答」なのです。