使徒言行録 7章1-16節
高松教会 村上貴志
最高法院で、裁きの座に着いたステファノ。
おそらく彼は、自分の身に起こることを常識的に自分の思いに照らし合わせて、予想していた事でしょう。
彼は、最後に人々に神さまの御旨の真実を知ってもらいたいと思いました。
イエス・キリストによる救いの喜びを知ってもらいたかったので語り始めたのです。
イスラエルの歴史を主出して欲しい。
アブラハムは、恵まれた場所を捨てて、異なる場所へ行けと、神さまに命じられた。
ヨセフは、カナンの大飢饉の備えの為に、穴に捨てられた。(エジプトに売られた)
モーセは、民を約束の地に導くために、川に捨てられた。
「思い出して下さい。ここにいる人たち。
イエスさまは、あなたたちが、何も得る事の出来ないと、十字架にかけてしまったお方であるが、
アブラハム・ヨセフ・モーセ同様、民の導き手となられるお方である」
これこそが、私たちに訪れた祝福である。生きた全てのイスラエルの喜びである。
神さまは、歴史と信仰の中で大いなる不思議な御業を展開して下さった。
それは、誰も理解する事ができなかったし、想像もできませんでした。
それどころか、神さまの恵みを、忘れて、捨ててしまっていたのが人の歴史です。
捨てた世に対して、神さまは、諦めずに、繰り返して与えて下さった。
信仰の民が、本当の喜びを知るために。
神さまは、「私たちを、捨てる」とは、言われない。
そのために、「その独り子を、捨てられた。」
捨てられるべきは、「私たちを愛する父なる神さまの思いを理解しない者」であるべきなのに。
ステファノも、自分の命を献げて伝えました。
(世が価値も無く捨てたと思った)一粒の種は、民を導く大切な、要石・頭石・親石と、なっていくのです。