使徒言行録 4章1-22節
高松教会 村上貴志
「神の前に正しい人」果たして、その様な人がいるのでしょうか?
歴代誌下 6:36で、ソロモン王は、
「 もし民たちが神さまに向かって罪を犯し、――罪を犯さない者は一人もいません――」 と、祈っております。
もちろん、神の御子であるイエスさまは、罪なき者でありました。
「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」(一ペト 2:22)
「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。」(一ヨハネ 3:5)
神の前に正しい人。
「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」(一ヨハネ 1:8)
「ペトロとヨハネ」は、「自分たちの思いや話が正しい」とは言わずに、
「救い主・イエスさまの御姿のみが正しい」と語ります。
民衆の前で正しさを求める人たちは、「何の権威によって」と、話をすり替えられます。
「正しいかどうか」を求めながらも、世では不正が横行するのです。
「なんと酷いことでしょう!なんと自分が正しいと思っている人が、この世には、多いことか!」
このような事、…。世には、溢れているのです。
「神さまの前で正しい」それは、尊いことかもしれません。
しかし、ほんの少しでも軌道を外れて一生懸命に進み続けると、「第一コリント13章」
他者への愛が無ければ、全て虚しいことです。
だから、ペトロたちは教えます。
「自分の正しさを求めるあまりに、十字架にかけて殺してしまった救い主の事を。
自分を建てるために捨て去ってしまった、神の御子の業の事」を。
そのお方は、「その隅より、全てを支えるための土台となられたのです。」
そのお方の御業によって、罪人(神さまから離れた人)も、
神さまの前に立たせていただく者としての形を保つ(祈る)ことができるのです。