ヘブライ人への手紙 7章20~28節
高松教会 村上貴志
神さまの憐れみ。イエスさまは、私たちが犯した神さまから離れると言う罪を代わりに担われるために、十字架への道を進まれたのです。
命を献げられて。本来は、神さまから離れた人自身が祝福を失い、十字架につけられるべきなのに。
その贖いの業を、知った私たちは、「しあわせ」だと思いました。
「しあわせ」この言葉には、二つの言葉が用いられます。
その第ニ義。「幸せ」この漢字の意味。
「罪人が、手枷だけの軽い刑で済むのは、思いがけないしあわせ」本来は、磔(はりつけ)になるべきところが、赦されて生かされている。イエスさまの十字架での贖いの御姿を見つめる事が出来る事。その御業に与った私たちは「幸せ」なのです。どのくらいの間?「ずっと」であります。イエスさまは、常に生きておられ、私たちのために、神さまに執り成しの祈りを捧げて下さっているからです。このお方は、永遠の命に与り、常に御自身の十字架上の姿を通して私たちを執り成して下さっているのです。24時間・365日・ずっと。眠られずに神さまが地上に与えられる御業を見つめておられ、その中での私たちの姿をご覧になられて、神さまの前で深く頭を垂れられるのです。私のために、主が代わって。重荷を担って下さったのです。私は、「手枷だけの軽い罪で良かった。幸せだった」と、思えるのでしょうか? そんな時、イエスさまが隣にいて下さり、今度は、手枷でなく、軛を。私の首をイエスさまの首に繋いでくださり、私も神の前で頭を垂れさせて下さる。 イエスさまが、共に礼拝に与る事が出来るようにして下さったのです。神の御子であられるキリストが、私たちのために仕えて下さった。そして、そのように「仕え合う」よう勧められたのです。 そして、主の教えのように、共に「仕え合う」事が、「しあわせ(仕合せ)」の第一義なのです。