ルカによる福音書8章16-21節
高松教会 村上貴志
昨日、教会の礼拝堂において、病床洗礼式が、執り行われました。「家族の救い」この祈りに教会として向かい合いたいと思います。これを、考える時。様々な状況が発生いたします。
「ともし火」それは、信仰の継承を言い表しております。それを、「隠すこと」とは?この時、イエスさまは、厳格なファリサイ派の人たちが、洗礼者ヨハネの洗礼を否定した事を、想定しておりました。「神さまが、定められた救いの御業」を、蔑ろにしたのです。それに対する、イエスさまの思いは、ヨハネ17章での最後の祈りでも、明らかにされております。参照⇒◆イエスの祈り(2・9・12節)
「誰も滅びない」今は、明らかになっていないように思えても、未来には、必ず!明らかになる。これが、17節で、教えている事です。イエスさまは、直前の出来事を想起されております。「罪深いとされていた女性」の思い・信仰。イエスさまが、そこに来られたから、明らかになった事。
「イエスさまが、ここに居て下さるから」イエスさまからの声に、耳を傾ける必要があるのです。
「持っているとおもうまでも取り上げられる」命すら。その時に、主が十字架に掛けられ、命、取られようとした時。しかし、それは、終わりでは無かった。命の終りでは無かった。神さまと共に有る、永遠の命の始まりであった。
世の常識は、大きく変わったのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」(マルコ1:15)あの、ファリサイ派が否定した、洗礼者ヨハネの言葉が、戻ってきたのです。信仰は、否定しても、忘れたように装っても、消し去る事は、出来ないのです。どうしてかと言えば、イエスさまが、教会に集う私たちの事を、「神の家族」と、して下さったからなのです。