ルカによる福音書6章12-16節
高松教会 村上貴志
主の12弟子。彼らは、第一コリント12章に記されているように、「霊的な賜物・一つの体、多くの部分」でした。いろいろな個性の弟子たちが、いて良いという事です。では、キリストの弟子足る私?、どのタイプの弟子なのでしょうか?気になります。
ペトロ?最初の弟子・筆頭弟子でありながら、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(ルカ 22:61)逃げる弟子。マルコ福音書では、度々叱られる。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」マル 8:33などとも、言われてしまいます。
しかし、だからと言って、イエスさまが、彼を遠ざけられたかと言うと、そうではなく、大事にされた弟子だと思います。他の弟子たちも?
一人ひとりに、霊的な賜物が、与えられ、育てられているのです。【第一コリント12章1-6】異なる賜物をもって、一つの大きな働きが形成されるのです。神さまの御業が。教会の働きと同じなのです。
「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」【第一コリント12:7】
自らの信仰の歩み・働きを思い出す時。「私は、何を成しているのであろう?出来ているのであろう?」
弟子たちの行動(失敗等)は、教えます。「大丈夫」
主に従う人は、必ず、周りの灯となって、導く力を得るのです。「何も持たない私でも?」
「私は、どのように用いられるのであろうか?」気にする必要は、無いのです。
体の部分の様に・十二弟子のように、異なる賜物を、豊かに用いられるのは、神さま。
そのように、私たち一人ひとりは、イエスさまの十字架の御業で変えていただいているのです。