ネヘミヤ記 12章1~26節
高松教会 村上貴志
9月の第一聖日。敬老会。
信仰と人生の先輩方の祈りと証し。聴く時が与えられますように。
聖書の箇所。またもや、人のリストです。祭司やレビ人・詠唱者・門衛。「祈りを導く人たちを忘れないよう」に、私たちに知らせます。
「取るに足らない小さな者の祈り」導く人たちの大きな祈りに加えられて届けられるのです。
昨日、ある婦人の病床を訪問させていただきました。コロナ禍の大病院「面会禁止」の札がある所に。
面会が出来ない事は重々承知。「地上での最後の時をお祈りで」という話をしたつもりでしたが、「意識の有る内に聖餐式を」???出来ないと思っておりました。祈りは聞かれる事は無いと思っておりました。
「同じグループでもお一人で」の案内を通り抜け、不思議な配慮でご家族と入室させていただきました。
状況を鑑み、聖餐の祈祷のみを捧げさせていただきました。すると、看護師さんが「少しなら口にできますよ」思ってもいなかった言葉が。実に不思議。
15分の時間制限も延ばされ。緩和ケアを越える配慮。
感謝であった時間でした。小さな祈りが聞かれた時でした。でも、この小さな祈りには、それを導く・引っ張る大きな祈りが、実は、有ったのです。
なぜ?こう導かれたのか?その答えは、家族や看護師さんの言葉の中にありました。「母の信仰に基づいて」聖餐式の話もご家庭でされていたのですね。
「ケアしていて、いつも、楽しそうに喜びながら、教会や聖書のお話をして下さっていたので」その大きな祈りが、残された時間に、その喜びに与って欲しかった看護師さんの思いに繋がったのですね。「良き知らせ=福音」は、伝わりました。
この「祈りによる喜び」は、繋がっていく。
それぞれの周りに「祈りの継承」が、広がる事を願います。証しされる事を願っております。