高松教会 村上有子
ローマの信徒への手紙7章14~25節
私は「自分の罪」に神学校生活4年間苦しみました。その結果、卒業論文のテーマは「罪」を題材にしか、思いつきませんでした。深く自らの「罪」を自ら解説しているような箇所である「ローマの信徒への手紙7章22・23節」を中心にもがく事になりました。
パウロはまだ見ぬローマの信徒たちへ「キリストを信じる」とはどういう事なのかを順序だてて語っています。罪からの解放を得ている者として、大胆に、(時に分かりにくいほど)詳細に、書いています。ですが、この7章に来ると、その勢いは下降気味となるのです。「わたしは自分のしていることが分かりません。自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです(7:15)。」
イエス様を信じて、イエス様のものとなり、イエス様を宣べ伝えているのに、パウロは、たましいの葛藤を隠すことなく吐露しています。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう(7:24)。」と叫ぶ程です。
しかし、その次の節から、パウロは変わります。
「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(7:25)。」罪の問題を語るパウロは、自分の罪を凝視し続けて、一番見なければならないお方を見失っていたのではないか?と思えるような変化です。ここに至るまで、7章7節から「罪」の問題を語り続けている間、一度も「イエス」「キリスト」という表現がありません。まるで、うつむいたまま迷子になっていた子が、上を向き、お母さんに見守られていることを思い出したかのようです。 見るべきは「この人」。私たちの罪を担い、私たちの代わりに十字架に架かって罪の贖いを成し遂げてくださった方。復活して、私たち信じる者に永遠の命を与えてくださるお方。イエス・キリストです。