高松教会 村上有子
詩編27編1~14節
詩編27編は、敵に囲まれている人物が信頼する主に確信をもって祈りつつ、すがりつつ、主からの御声を聞く詩編ではないかと思うのです。
多くの信仰者たちの祈りとなり、支えとなってきた詩編。ルターはこの詩編を「小聖書」と呼びました。カルヴァンは「たましいの解剖図」と表現しました。言い得て妙です。
表題にある固有名詞が著者であるとすると、ダビデは、主との個人的な深い信頼関係に確信を持っています。「主はわが光」「主はわが救い」「主はわがの命の砦」。百戦錬磨のダビデでさえ、恐れることがあり、弱さを持っている人間です。詩人の主への強い確信が、7節以降、少し様子が変わっています。まるで、主なる神が消えてしまったかのように、すがるような言葉が続きます。まるで、叱られた子供が泣きながら親の許しを必死に願って足にすがっているような光景ではないでしょうか。
13節は、直訳すると、「もしも、私が命あるものの地で主の恵みを見ると 信じていなかったなら。」詩人の絶句とも思えるような言葉でもあり、また、自らの心を鼓舞するような箇所でもあります。主、無しには、一歩も前進も後退もできない。そんな心境を読み取ることが出来るのではないでしょうか。人間の力で出来る精一杯はここまで。ということではないでしょうか。そこに主の御声がある。詩編は人からの主への願い、叫び、賛美、祈りであると同時に、神御自身の啓示。14節は、申命記31章7・8節を思い起こさせる力強い命令です。たとえ、敵に包囲され、絶体絶命の只中にあっても、主を待ち望み、主の宮に住まうような平安と共に、主の戦いに勝利していくことができるよう、導いてくださるのは、主です。主を待ち望みましょう。どんな時も。
主なる神を待ち望みましょう。雄々しく、強く。