高松教会 村上貴志
ルカによる福音書 24章1~12節
「罪の赦し」これは、どのような事なのでしょう。
「受難週の聖書の中」で、ピラトは、「罪」を、「犯罪」として捉えました。しかし、ユダヤ人たちは、「神さまへの背き」と考えました。律法や掟を守らない事。故に、人々は、正しく・清く生きようと努めました。(ちょっと堅苦しいですけれど、命がかかっていますから)難しいですねぇ。いえ、そうでは無いのです。 何も持たずに生まれてくる存在(命あるもの全て)が、神さまからの祝福と恵みが無ければ生きていく事は、困難なのです。「共におらせていただく」神さまが祝福して下さっている世に、共に居らせて頂くだけなのです。しかし、その時に、感じる事・思う事が有ります。全知全能の神さま。私自身は、相応しいのだろうか?そんな思いが心の内に起こるから、「正しく・清く生きなくてはならない。」そう思ってしまう。ですが、そう生きようとした大祭司でさえ、「知らないうちに犯した罪のために」犠牲を捧げた・祭儀を持ったのです。できますか??
しかし、私たちは神さまに祈っている。相応しいのか?犯した罪の赦しは完了しているの?
自覚的には、何もありません。しかし、事実。祈らさせて頂いている。では、どこで・どこに、大祭司が赦しを求め献げたような犠牲が?
それが、主イエス・キリストの十字架の贖いであります。「わたしたちの罪のため、十字架に架かって下さったのです」【ルカ 9:22】「三日目に復活することになっている」ガリラヤでのあのお言葉を思い出します。この知らせ。「心の内に有った」けれども、忘れていた弟子たちに、再び力を与えます。
きっかけがあれば、取り戻せるのです。「神さまと共に・イエスさまと共に」という思いを。
これが、私たちにとってのキリストの十字架からの甦りだと思うのです。