マタイによる福音書6章1~9節
高松教会 村上有子
この箇所も前章から続く「山上の説教」の一部です。イエス様が現在の私たちにも語り続けている説教です。善行が悪い訳ではありません。イエス様は、その行為の結果ではなく、その行為の目的、すなわち、その人の心を問うています。日常の活動、教会の奉仕、あらゆる私たちの行いは、神に向かっているはずですが…。自己吟味が常に必要です。
この箇所において、偽善者と言われているパリサイ派の人たちの行為は貧しい人々にとって助けとなり、守られた時間以上に捧げられた祈りは、人々から一目おかれる立派な姿として賞賛を得ていました。人に向かっての行為です。人々も得をします。WIN-WINの関係ですから、世の価値観からすると、何の問題もありません。しかし、イエス様は、結果を見るお方ではないのです。彼らの心を見抜くお方は、彼らの施しや祈りが、神を讃えるためではなく、自分の栄光を求めて行っていることを知っています。
クリスチャンになる前に、「偽善者」とよく言われていました。今となっては、何に対して「偽善」と言われていたのか分かりませんが、あれから数年後、聖書を開き、イエス様に出会って分かりました。
私は本当に偽善者なのだと。まことの罪人だと。
イエス様のものとなっても「偽善者」と言われてしまう日々。やはり聖書が私を励ましてくれました。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、身を刈り取ることになります。【ガラテヤの信徒への手紙6章9節】隠れておられる所で見ておられる神様が、すべてを知っていてくださる。それが、私たちの慰めと希望です。この罪の満ち満ちている世にあって、主に向かって善を行えるよう、祈りましょう。