高松教会 村上有子
マタイによる福音書 5章27~32節
広辞苑には「姦淫」とは「不正な男女の交わり」とあります。「性」に対する感覚が麻痺している現代の有り様に、私たちは警戒しなければならないと思わされます。イエス様はここで「『十戒』を立派に守っています」という人々に「十戒」を正しく伝え直しています。「みだらな思いで他の妻を見る者はだれでも既に心の中でその女を犯したのである。」イエス様は男女の既婚者、そして、結婚していない者に対しても警告していると思われます。後半は非常におどろおどろしい表現でありますが、イエス様の御思いに反して、どれほど人間が罪深いかを表現しています。実際に右手右目をえぐり出し、切り捨てることを求めておられるのではなく、それほどまでに、人の罪は重いと語っておられるのです。では「律法」は何のために有るのでしょうか?ローマの信徒への手紙7章、ガラテヤの信徒への手紙3章をお読みください。「律法」によらなければ、罪を知ることが出来ない私たちなのです。「律法」は私たちをキリストの元へと導く養育係となったのです。「律法」によっては誰も神の御前で義とされることはありません。「律法」の実行に頼る者はだれでも呪われています。ですから、私たちは呪われた者として、然るべき刑に服さなければなりません。しかし、その刑にふさわしいことを何一つできない私たちです。そのために、イエス様は、木にかけられた者となって十字架にかかってくださったのです。私たちのために呪いとなって、私たちを「律法」の呪いから贖い出してくださったのです。身代わりになって十字架に上って下さったお方に立ち返り続け、イエス様の十字架の元に留まり続け、「律法」の体現者・「律法」を成就される方・イエス様に信頼し続けましょう。それが、罪を知った者が出来る唯一のことであり、主が願っておられることなのです。