高松教会 村上貴志
コロサイの信徒への手紙 2章6~19節
既に「主キリスト・イエスを受け入れた」クリスチャンは、そう信仰を告白している。既に、決断しているのです。「キリストに結ばれて」何があっても、イエスさまの元からは、離れない!「もう後戻りはしないように」と、パウロは、勧めます。
しかし、私たちの歩みには、課題がある。乗り越えるべき問題が山積みされている。その時に、立ち止まったり、後戻りしたりすることも有るのです。
しかし、後戻りは、人の思い。人の感情や知恵に頼ろうとする思い。自分自身で自分自身を慰めようとする思い。うやむやにしたり・忘れてはできる。 でも、イエスさまから・神さまから離れた所には、何も無い。「解決は、神さまと共にある」という信仰。
「キリストと共に有るという救いを受け入れたのではないのか?」と、尋ねるのです。
「キリストを受け入れたのに、キリストを見つめない人たち」誰を見ているのでしょう。きっと自分。
「聖書と福祉 -共生の社会をめざして-」というテキストの冒頭に、西洋の慈善事業の始まりは、「小さな者に何かの働きかけをすれば、それを行った個人が、神の恩寵を受けることができ、罪を赦されるという、施与者の贖罪が目的であった」という一文がありました。貧しい人の本当に必要な事に目を向けず、自分の救済を求めていたのです。
律法を追い求める事も、同じなのであります。
神の愛を実践する為ではなく、自らの正しさを教会の中に誇る事。それは、「キリストに従うものではありません」【8節】私が完全になるのではなく、完全なるキリストに従う事を勧めたのです。
聖書を通して語られる・教会で伝えられる・愛する兄弟姉妹がたの行い奉仕証しによって繋がれている、イエスさまのお姿に、目を向ける事が、第一なのです。