高松教会 村上貴志
コロサイの信徒への手紙 2章1~5節
パウロの一生懸命さ。イエスさまを、贖いの十字架と甦りを、救いの御業を、伝えようと言う思い。本当の思いです。「まだ直接顔を合わせた事のないすべてのひとのために」パウロは、働くのです。
ラオディキアは、コロサイの近くにあり、織物と商売、薬学の町。目薬が、有名な場所でした。
つまり、「顔を合せた事のない」顔を見たことのない・顔が見えない。その教会に対して、「目薬を使っていても、あなたがたは、目が見えていない」と、皮肉を言ったのかも知れません。ラオディキアは、日本と同じように多神教の街。あちこちに神と呼ばれる存在があり、願いによって詣でる所が異なる、御利益宗教の町でした。つまり、見えない現実・過去・未来を、沢山有る訳のわからない人の造った物に託している。正しいかどうかわからないから、あっちにも・こっちにも詣でてみる。考え付く限り。一生懸命考えて詣でている。しかし、満たされない。
心の中には、ぽっかりと大きな穴は、空いたまま。 人の作った信仰、知恵による恵みとは、その様なものなのかもしれません。最善かもしれませんが。
しかし、パウロは、その人の思いに「待ったをかける」のです。パウロが、伝える神さまは、違う!
全てを造られ、全てを治められ、全てを憐れまれ、全てを愛され、全てを贖われた・救われたまことの神さまが、その独り子を、私たちの・あなたたちの罪の為(神さまから離れてしまった状況から)私たちを、護りと恵みと平安と祝福を、失ってしまった小さな者を、再び、その御手の中に取り戻すために、その独り子を、十字架におかけになられた。背いた者を取り戻すために、神さまの独り子を、罪の世界に渡されたのです。
「私たちには、キリストが内に有り、私たちは。キリストの内に有る。」
この思いに満たされた人は、変わる事が無いのです。