高松教会 村上有子
マタイによる福音書5:13~16
「塩」は皆さんの生活の中で、どのような存在ですか?
料理の調味料という答えが多いかと思います。私はキリスト者になる前、料理人として生計を立てていました。料理人にとって「塩」は無くてはならないものです。多様な使い方があり、その塩梅は料理人の腕が問われる所です。私にとって「塩」は本当に恐ろしくもあり、嬉しくもある存在でした。
イエス様の時代も食べる物に「塩」を使っていたようです。当時の塩は、岩塩です。今でいう岩塩でなく、岩に塩分がしみ込んだ物だったそうです。死海沿岸南西、ソドムがあったとされる辺りに鉱床、塩分鉱物が地中に局部的に集まっている所から採掘したものを使っていたようです。今私たちが使っている「塩」とは使い方も、純度も違っていたようです。その「塩」でガリラヤ湖から捕った魚はほとんど塩漬けにしていたようです。冷蔵庫の無い時代ですから、鮮度を保ち、腐敗を防ぐためです。ガリラヤ湖畔の町マグダラはローマにおいても名が知られているほど、貯蔵食品として塩漬けした魚が、売り出されていました。(交通も便もよかったのかもしれません)ある書物には、「ローマのユダヤ人たちは安息日には、魚の塩抜きをしてはならない」と記されているそうです。魚といえば、塩漬けが定番だったようです。
貧しい家庭においては、魚は少し上等だったようですが、もちろん、塩漬けの魚でした。残念ながら、イエス様の時代における日常の食事に関して不明な点が多いのですが、一般的には、大麦のパン(裕福な人たちは小麦の場パン)、オリーブ、果物または、塩ゆでしたイナゴ、といった食卓だったようです。一日2回の食事がほとんどで、仕事から帰ってきたら、パンと塩だけ食べる、という質素な食事でした。ということは、はやり、「塩」はイエス様の時代においてもなくてはならない重要な調味料だったということです。主に、食事の味付け、そして、腐敗防止として。
旧約聖書には、「契約の塩」という言葉があります。レビ記2章11~16節をお読みください。「契約の塩」には、素晴らしい象徴の意味があります。「新しさ・新鮮さ」(腐敗を防ぐため)、「永遠」(燃やしても無くならない、時がたってもなくならないため)。民数記18章19節には、「永遠の塩契約」という言葉で、「神様との新しい・永遠の契約の中に入れて下さり、私たちの捧げものをお受け取りくださる」すなわち「礼拝を捧げることができる契約の中に入れられている」ことが民数記では語られているのです。
ここまで「塩」について確認しました。「身近でありながら、大きな役割があり、生活の中で欠かすことのできないものとして『塩』がある」ということを。「その『塩』が・・・・あなたです!」
とイエス様はおっしゃったのです。もちろん、直接的にイエス様が語り掛けているのは11節で「あなたがた」と語っている、目の前にいる弟子たち、そして、その周りにいる大勢の群衆ですが、しかし、この聖書が私たちのために書かれたものであるからには、私たちにも語られているのです。
しかも原文では「あなたがた」が強調して語られています。弟子たちを見て、群衆をみて、「あなたがた、わたしの所にわたしを、求めて来たあなたがたは」と聞いている人々に訴えるように語っている情景が浮かんできます。「あなたがたは地の塩である」という命令でもなく、お勧めでもなく、宣言しておられるのです。
この地上の罪による腐敗は、説明しなくても身に染みて私たちは知っております。この世界の腐敗を食い止める存在としてあなたがいるのです。山上の説教冒頭にある「8つの幸いの使信」にあるように、わたしがこの世の者でないように、あなたがたがもこの世のものではなく、わたしが聖いように、あなたがたも聖いのです。ですから、この世に対してしっかりと塩気を帯びて歩んでいくのです。イエス様はこの宣言を通して、問うておられると思いました。「わたしから塩気を受け取らない塩はどうなると思いますか?」と。この世において何の役にも立たない存在になるのです。当時の塩は、塩の成分が岩から溶け出して、塩がただの岩、すなわち塩気がなくなることがあったようです。そして、原文では、イエス様は「塩気がなくなる」という言葉を使わずに「愚かになる」「効力を失ってバカになる」という動詞を使っているのです。
わたしから塩気を受け取らないで、わたしから離れては、ただの愚か者です、と。なかなか厳しいイエス様のお言葉です。
イエス様の言葉を曲解していないだろうか、ということも考えさせられました。「自分が、きよく、美しく、いつも正しく、非の打ちどころがない『塩』になればいい」とイエス様はおしゃっていません。私は勘違いしていることが多いと気付かされました。そうではなく、「塩」は決して主役ではない。他者のために役割を果たして初めてイエス様が言われている「地の塩」になるのです。イエス様が言われている「地の塩」として、本来の「塩」の役目を果たすなら、どんなものも清められるのです。キリスト者が本物のキリスト者として、キリストから離れないでいるならば、「地の塩」として、塩気を失うことはなく、どんなものも清めることが可能になるのです。
「地の塩」という言葉に生きた人として、私は大島青松園の入所者「三宅官之治兄」を思い出します。たった一人のキリスト者入所者として、どんな迫害をも祈りをもって「地の塩」であり続けた三宅官之治兄に「大島霊交会」が主に在って与えられたことを「頼院創世」という書を通して知りました。(是非、読んでください。教会にあります。)三宅兄を通して「地の塩」であり続けることは簡単なことではない、しかし、あり続けるならば、必ず主がそこを清めてくださることを知りました。
「あなたは地の塩です!」この言葉は、イエス様の宣言です。イエス様が私たちに期待を込めて、イエス様がいのちを掛けて語られた宣言です。「あなたは地の塩である!」イエス様に、応えていきましょう。