高松教会 村上貴志 ヤコブの手紙 1章9~11節 「信仰と行いの問題」に、向かい合っているヤコブの手紙。「その時代の現実とどう向かい合っているか?」と言う事かもしれません。 「身分の違い」 教会では、「神さまの前での平等・神さまは、等しく私たちをお造りになられた」と、教えるが、現実では、そうでない。しかし、教会では、…。 イエスさまの十字架の贖いに触れた人は、自らの罪を覚える。赦された人は、「神さまの前での等しさ」を、感じる。「神さまの御支配」これを、一番としているからです。そして、その時、地上で低い身分とされている人たちにとって、その事が、大きな希望でありました。取るに足らないと思っていた自分に、過分な喜びが与えられたからです。教会で大きな希望が語られたからです。低き所から引き上げられる。大いなる喜び。感謝。 しかし、持っている人が捨てる事・手放す事は、容易ではない。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:21)とは、いかない。 マタイ19章16節以下の「金持ち青年」の話を思い出して下さい。永遠の命を得るために、十戒を守ってきた青年。しかし、地上での豊かな財産を天に積むことは、難しかった。「律法を守った・御言葉にった」と、思っていても、それは、神さまへの思いではなく、自分への思いであったのです。 「信仰と行い」この問題。 「今は」その行動が一番だと思っている。 しかし、「今は」ではない。「絶対的な」が必要。 変わらない御業・キリストの救いの業に与る事・キリストの姿に倣う事。 今思える一番ではなく、最善ではなく、絶対的な事・唯一無二な事。キリストの歩みに従う事を、一番にしたいと思うのです。
2021
07Mar