高松教会 村上貴志 イザヤ書 56章1~8節 アドベント第三週。「救い主のお誕生」を、祝います。「喜びます・祝います」本当に、神の民で無い私たち異邦人が、この恵みに与っても良いのでしょうか? 当時の常識は、「正義を守り、恵みの業を行え」ば、救いの恵みに与る。「安息日を守り、悪事に手をつけないように自戒する人は」救われる。 しかし、「主のもとに集ってきた異邦人は言うな」と、あえてイザヤが叫んだように、「信仰の民と異邦人」は区別されていた。ユダヤ一般では、「認められていなかった」のです。恵みは、イスラエル・選ばれた信仰の民のみ。 でも、信じるならば、…。 異邦人でも、信じるならば、…。 ダメです。「正義を守っても、安息日を固く守っても」改宗者であっても、人々は、受け入れなかった。愛されているのは、限られた私たちだけ。排他的。 でも、神さまは、この異邦人をも含めて救いの御業を展開されたのです。 以前とは違いすぎる。「神の思いは、変わったのか?」民は、注目するのです。 それに対して、神さまは、イザヤを通して語られました。「昔語った事を、撤回する。かつて、申命記23章2-7で語った事は、変えられた」と。 会衆に加わる資格の無い者(宦官・混血の人・アンモン人やモアブ人のような敵)でも、安息日を守り、神さまとの契約を守るのであるならば、会衆に加える。宦官をも、受け入れる。であるならば、信仰の民の礼拝の場の下座で、「隅っこででも」と思って集会に加わっている異邦人をも、「聖なるわたしの山」新しく造られたイスラエル第二神殿に招こうと、神さまは、呼びかけて下さる。「ここに、神の前に、出て来なさい」と、招かれる。約束の民アブラハムの子孫で無くとも、「とこしえの名を与える。とこしえの命を与える」と約束して下さったのです。 この言葉を、民は、信じなかった。この恵みを分け与える事を良しとしなかった。これが、「人の創造」からの、アダムとエバからの罪・神さまから離れた罪であります。神さまを疑う罪由来の思いであります。「もっと良い物を!」蛇の声に唆される罪の姿。 神さまは、疑う民を洪水や国の滅び・捕囚、奴隷とはしなかった。報いの罰を受けても、ヒトは、変わらない。それ故に、神さまは、救い主をお遣わしになられた。世に・民に、送られた。異邦人・全ての民の救いのために。
2020
13Dec