高松教会 村上貴志 マタイによる福音書20章1~16節 本日は、永眠者記念式として礼拝です。神さまの元に召された方々の事を覚え、祈りを合せます。 神の国に招かれた方。この聖書では、「そこでは、一日一デナリオン(必要な糧)で養われている。」と記されております。そこにいるならば、「ずっと、養われ続ける。困ることもなく、足らないと思うこともない。満たされた生活を送る事となる」のです。 神さまは、この恵みのために「招かれる」のです。朝一番。次に、「今日の平安を求めている人たち」を探します。その人たちに、「ふさわしい賃金」の約束で、ぶどう園に招きます。9時・12時・15時。「残された今日一日の平安と希望が約束」されるのです。 しかし、希望を持てないものも、残されておりました。17時。一日の終りに。「何が悪かったのだろう。スタート時間?向き合い方?」反省するのです。 その時になって、思い直すのです。「どうして、初めから、…。」悔いるのです。「チャンスが有るならばやり直したい」思いを改めるのです。ですが、もう遅い。それが、この世の理(ことわり)であります。 ところが、そのようなものにも、声が掛かります。 「あなたたちも」最後のチャンスは、一人ではありません「残っているもの全員」主は、そう語ります。 最後の時にも、一つの希望が与えられたのです。 そして、日暮。評価の時。最初からのものも、最後のものにも「必要な糧・平安が与えられた」 明日の事がわからない時代。【マタイ6:34・申命記 28:66・箴言 27:1】どうなるかわからない。それでも。「主はまた時を定め、明日、この地でこの事を行われる。」【出エジプト9:5】 主の民を、見守って下さっているのです。 明日への命。天の御国での永遠の命を約束していただき、いただいた方の思いは、「全ての人が!」 御国での再会を待ち望んでおられるのだと思います。
2020
27Sep