使徒言行録 24:24-27 高松教会 村上貴志 フェリクスの妻・ドルシラは、ユダヤ人と記されていますが、ヘロデ王の末娘でした。彼女は、結婚適齢期になった時、東アジアの小国の縁談が有りました。ドルシラは、結婚相手が、ユダヤ教に改宗する事を拒んだので、これを破談とします。父ヘロデが、洗礼者ヨハネの言に耳を傾けたかったのと同じように、神の言を求めていたのかも知れません。 パウロの話。信仰の話。新しい救いの御業。「罪の赦し・体の甦り・とこしえの命」に、与りたいと思ったのかも知れません。父ヘロデは、罪に罪を重ねた。ドルシラは、悔い改めたかったのかも知れません。フェリクスと共に、パウロが語る「イエス・キリストの御業」について聞こうとします。 しかし、救いに与っていない神から離れると言う罪の連鎖は、ここにも続きます。現れます。フェリクスは、賄賂に引かれます。しかし、パウロが与える事は「イエス・キリストの十字架による救いの言」でした。フェリクスは、語るのです。「今回は、…。また適当な機会に、…。」 ローマ法によると、裁判が2年経っても結審しない場合には、被告の罪は問われず釈放される事となっておりましたが、パウロは、解き放たれる事は有りませんでした。この事については、「正義や節制来たるべき裁き」を聞きながらも、受け入れる事の出来なかったドルシラが提案したとも言われています。 母ヘロディアと同じ罪を繰り返したのです。 「罪を断ち切る」神さまの前で、古い自分が死ぬ。新しい自分とならなくては、十字架の救いに与らなければ、罪の連鎖は、人に留まり続けるのです。 「今回は、…。適当な機会に、…。」ではなく、「今回も、必ず」離れた者にも目を向けて愛を注いでくださる神の御業を覚える所に、救いの御業は現れるのです。
2020
21Jun