使徒言行録 22章17-29節
高松教会 村上貴志
何事にも、神さまに忠実なパウロ。エルサレムに帰ると、神殿で祈りを捧げます。そうすると、パウロ自身「我を忘れた状態」神さまからのお言葉を、受け取りやすい状態となりました。これは、11:5でペトロが導きを受けた時と同じです。 「我を忘れる」自分を失って。どうなるのかと思うのですが。神さまから引き離そうとする最も大きな力から解き放たれたのかも知れません。 心の中から、「何で・どうして? 経過は・結果は? 辛くない・苦しくない? 困難・大丈夫? 損しない・得する?」そのような呟きが無くなる。「主の道を歩もうとする思い」を邪魔する最も大きな障害が、消えるのです。主のお言葉が、ストレートに、入って来るのです。受け入れがたい言葉であっても、「急げ、すぐにエルサレムから出て行け」パウロは、そこにイエスさまの十字架の御業を伝えに来たのです。 パウロのイスラエルに対する思いは、真剣でした。 しかし、イスラエルは、無理解であった。いえ、自分たちが律法を守る事によって、自分の証しによって、神さまの元に進めると信じていた。誰かにしてもらわなくとも、自分で!自分が正しいのです。 そこから、抜け出る事が出来ないのです。それが、神さまから離れた罪の世界の出来事です。喜びがあっても頑なに受け取らない。自分で行ったのではないから。神さまから離れるという罪の連鎖は、自らは、断ちきれないのです。解き放たれても、自由には、なれないのです。 不思議です。よく「身体は囚われていても、心は自由だ」と言いますが、イスラエルは、主の十字架によって「身体は罪の世界から解き放たれましたが、心は、罪の世界に留まっていた」のです。 「自分を誇る思い」を捨て去らなければ、「主の御業を受け入れる事ができない」のです。