ルカによる福音書 23章56b-24章12節
高松教会 村上貴志
「イエスさまが、見当たらなかった」(3節)と記されています。イエスさまは、十字架に架かり、死んでしまったのです。なのにどうして、お墓に、イエスさまの姿が無かったのでしょうか? いえ、もっとの疑問。12月のクリスマスを思い出して下さい。「全世界の救い主がお生まれになった。その方は、神さまの独り子である」そう喜んだ。 どうして、その方が、十字架に架かられないといけなかったのでしょうか? それは、人の・私たちの歴史に記されております。 聖書の最初の出来事。神さまが最初に造られたアダムとエバは、神さまから離れて「エデンの園」から追放される。その後の信仰の民は、王を求め、他国を頼り、神さまから離れてしまう。 神さまを忘れる事を、教会では、「罪」と言います。 この罪を贖うために、十字架に架かって下さったのが、イエスさまです。私たちに代わって。 その姿を見て、神さまの信仰に立ち返る人に、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と、イエスさまは、言われます。楽園とは、アダムの園・神さまと共に暮らす恵み豊かな場所です。そこに、全ての人を、招くために。「神さまから離れた罪」イエスさまが、神さまを私たちを、その命をもって繋いでくださったので、その罪は、赦されました。そして、イエスさまの隣で十字架に架かり、一緒に楽園に行った人のように。私たちも、神さまのおられる所へ、招かれたのです。 イエスさまは、「一緒に」と、言われました。 イエスさまは、神さまの元におられるのです。 この地上に残られたのではないのです。「イエスさまは、お墓の中に見当たらない。そこには、いない」 私たちの罪の先(陰府)にあるところへ歩んで下さり、神さまの元に、戻られたのです。