「
ルカによる福音書 22章14-23節
高松教会 村上貴志
この聖書の箇所。ダビンチの絵画「最後の晩餐」で多くの人が知る場面です。「席について=横たわって」弟子たちがリラックスして聞けるように、当時の習慣通りに行われます。「緊張して聞いていなかった」ではなく、落ち着いて、そして、話を聞いて緊張するように・備えるように切に願われたのです。
イエスさまは、「苦しみを受ける前」で有りましたが、「それ(過越しの食事)をしたい」と、ライトな感じで語られました。それは、弟子たちの無理解を知っておられたからかもしれません。
イエスさま御自身が、出エジプトの時の「過ぎ越しの羊」となられる。献げられた羊の血は、神の民のしるし。神さまから離れた罪より救われるのです。イエスさまの流される贖いの血によって。
弟子たちに理解されなくとも、最後の食事を始められます。この食事以降は、神さまの救いの御業が完成するまで、過ぎ越しの食事をとることは無い。 もう、これから先、同じような食事は無いと言われるのです。つまり、これで、救いの御業は、完成する。二度は、起こらない。必要ないということです。
「あなたがたのために与えられる」聖餐式で語られる言葉です。イエスさまの流された血は、私たちのためなのです。出エジプトの出来事を思い出して下さい。(出エ12章)全ての人も家畜も、その初子は撃ち取られます。過ぎ越しのしるしの無い家では。
本来なら、私たちも、神さまから離れた世界・罪の世界で、撃ち取られるに等しい存在であったのです。しかし、そのような者に、神の御子が、自らの血で、「この人が、神さまに属する者である。神さまが共におられる。罪の世界に撃ち取られることはない」と、宣言して下さったのです。
「神の御子の贖いの血」それ故に、この事は、二度と起こることはないのです。