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使徒言行録 19章21-40節
高松教会 村上貴志
旅の途中エフェソに立ち寄ります。その町には、「アルテミス」月の女神が、祀られておりました。信仰として、「造られた神殿」を、飾り・拝むと言う事が有りました。神殿の、土産物でも有りました。
人々は、そこに詣でた記念品として、家の中で、飾るのです。日本における、神棚や仏壇のように。
そこで、パウロは、「偶像は、神では無い」いつものように、熱く語りました。「神さまは、ただ1人。全てをお造りになられ、全てを治められる聖書の神さまのみ。信仰の対象も・救いの御業も、銀で出来て物では無く、キリストのみ。」と。
「頼るべきお方は、聖書の神さまのみ」高い銀製の神殿は、何の守りにつながる事は無いのです。
「高いものならば、御利益がある」信仰では無く、人の心なのです。信じる思いのゆがみが有りました。
アルテミス信仰も、像を拝む事による誤った信仰。
さらに、高い神殿を飾れば良いと言う誤った信仰。
何重もの誤った信仰を、パウロは、指摘したのです。
そして、パウロは、その問題に対して一番ふさわしい解決策を、伝えます。そもそも、この問題は、神さまを信じる事の出来ない「人の心」。信仰心を持ちながら、アルテミスを心底信頼できない「人の心」。
パウロは、語るのです。「真の神さまは、聖書の神さまは、常に、過去も未来も現在も、私たちの事を思って下さり、共にいて下さっている」信じながらも、不安を覚えるような事は、無い。「信じる者、全てに、安心を。恵みと導きと平安を与えて下さる」
不確かな思い・信仰は、常に、何か良い物・変わる物を探し続けなくてはなりません。人の心を安心させるために、不安が増すのです。ですが、パウロは、「あなたがたに、本当の安心を教えよう。いつも、共にいて下さり、守り・導き・祝して下さるお方をお知らせしよう」と、伝えたのです。