マタイによる福音書 1章18-25節
高松教会 村上貴志
マタイによる福音書では、救い主であるイエスさまが、信仰の父・神さまから祝福の約束をいただいたアブラハムの子孫であり、ダビデ王の子孫である事を伝えます。
そして、預言書で与えられた約束が、成就する事を、伝えるのです。
神さまからの約束が、地上に現れるのです。
父であるヨセフに、主の御使いたちを通して、語られました。
「一人の男の子が与えられる。そして、インマヌエル(神は我々と共におられる)と、呼ばれる」と。
さあ、このお告げ。
喜びと受け取るのか? それとも、…。驚きと受け取るのか?
御使いたちの言葉を、額面通りに受け取れば、…。
「今まで、ユダヤ人は、神さまと共にいなかった」と言う事になります。
聖書の歴史を読んでいくと、信仰的だと言われている人たち、アブラハムもイサクも。
人の知恵で、危機を回避しようとします。
神さまを信頼しながら、人の思いで、ピンチを乗り越えようとします。
「神さまに祈って」では、無かったのです。
ダビデ王も然り。
罪に陥ります。
どんなに信仰的だと思われていても、神さまに従いきると言う事を、人の力で成し遂げる事は、出来ないのです。
それは、今に生きる私たちも同様であります。
聖書を読んで感じる事。
あんなことは、難しい。こんなことは、難しい。
「互いに愛し合ったり。赦しあって・和解して、礼拝に集う事。七度を七十倍赦したり。」
神さまの前に相応しく歩もうと思うのだけれども、神さまから引き離そうとする存在・罪に引かれて、実現しない。
私の中に、神さまから離れようとする思い・罪が、存在しているのです。
神さまは、背くものにも、祝福を与えて下さろうとした。
離れようとする者にも、離れた者に対しても。
その独り子の命を持って、繋いでくださった。
それが、このクリスマスの出来事なのです。