使徒言行録 15章22-40節
高松教会 村上貴志
新しく生み出されたアンティオキアの教会。
ここに古い習慣を持ち込もうとする人たちが、やって来ました。
彼らは、異邦人にも約束のしるし「割礼」を求めました。
そして、「律法をも、遵守すべきだ」という人たちでした。
主が導かれた教会とは?
主の十字架による贖い。
「神さまから離れたと言う罪」から赦された・解き放たれた、
新しい人の歩みの喜びが満ち溢れる所では無かったのでしょうか?
「モーセの教えからも、解き放たれた」のでは無かったのでしょうか?
新しい教会は、古い「重荷」を背負わされたのです。
パウロたちは、エルサレム教会に乗り込んで、直談判します。
「律法においては救われない事(16節)」を確認します。守りきることは、未来永劫、人の力では、出来ない事なのです。
希望は、イエスさまの十字架の救いのみにあるのです。
そして、さまを知らなかった異邦人のためにも、イエスさまは、十字架について下さったのです。
「その重荷」 既に、キリストが背負われた。
異邦人の重荷をも、キリストが担って下さっているのです。
主の十字架の尊さと、人の行う正義・行いを、天秤にかける事はふさわしくないし、それは、意味の無い事なのです。
心のよりどころを欲して、時に、私たちは偶像を造りだす。
立派な人の行い。立派な人の話。
何者をも神としてはならないのです。
私たちの頼るべきは、主からの導き。
「聖霊」と結び付けられて、従うべき方を見いだす。
誰かに従うならば、イエスさまなのです。偶像は、導いてはくれない。
自分自身が求め尽くして願う「祈り」、それこそが、私たちを導くのです。
神さまの新しい約束。新しい契約。それが、教会に与えられたのです。
主は、「重荷」を、私たちには、課せられない。
重荷を取り去り、御国に招いて下さっているのです。