使徒言行録 14章21-28節
高松教会 村上貴志
この時分のキリスト者への迫害。皇帝の迫害ではなく、同じ神さまを信じるユダヤ教徒からでした。
不思議であります。イエスさまをキリストと認めるかどうかは、大きな問題でした。
しかし、彼らは、皇帝を神とする事を容認している。彼らも、圧迫されていた。
少し、心が、曲がったのでしょうか?
自分たちを守る防衛反応でしょうか?
神さまを・信仰を守るために、行動していたのが、いつの間にか、自分たちを守る行動に変わってしまっていました。
これが、「ヒトの罪。」というものなのでしょうか?
本当は、「神さまのために」という思いから出発しております。
神さまの恵みを感謝する事から出ております。
しかし、どこかで、道を誤ってしまった。
どこかで、神さまから目を離してしまった。一人では難しいので、…。
「盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは徒党を組み、シェケムへの道で人を殺す。彼らは実に淫らなことを行う。」
新改訳2017 ホセア書6:9
正しい思いを全うするために与えられた力は、神の業・祭司の業では無く、罪の業・盗賊の業でした。
神さまの思いが地上に現れるようにと、対抗した結果。
罪に落ち、敗北してしまう。
世の迫害に対して、教会は、一歩下がります。
キリストを伝えるために。ローマの支配の弱いアンティオキアまで。
信仰を持つ事で迫害されたとしても、苦しみが有ったとしても、それを経た先には、道があります。
【使徒9:15・16】パウロにも、示されました。
理解される事は難しいかもしれない。
伝わらない事も多いかも知れない。自分から離れられる事も有るかもしれない。
それでも、良いのです。今は、…。
教会に集えば、相応しい人が備えられている。
皆が、キリストを仰ぎ見、倣っている。
パウロ、いえ、イエスさまと共に、私たちも集っているのです。