使徒言行録 13章26-41節
高松教会 村上貴志
神の民でありながら、神の御業・イエスさまが約束のメシアであることを信じない人たちもおりました。
イエスさまの言葉を、聞きながらも。
イエスさまが、居られる所・語られる所・言葉が伝えられる所には、天の御国の門が開かれていた。
しかし、熱心だと思う人たちは、神の御子の、約束されたメシアの姿に・言葉に気が付かなかった。
それどころか、そのお方を、神の御子を、十字架の上で殺してしまった。何と言う愚かさ、罪深さ。
神の御子を敵とすることは、神の敵となる事です。
しかし、神の御子・全ての人を救うために地上に来て下さったお方は、その敵対する人たちの為に、十字架に架かって下さった。
捨て去るのではなく、昔のように他国に渡されるのではなく、報いを与えるのではなく。…。
その働きに参与させた。
「十字架に掛けろ!」罪深い、神さまから離れた呪いの言葉であります。
祝福を受けた者が、語るには、最も神さまから離れた叫びであります。
しかし、その言葉を、神は、主は、用いられた。
叫ぶものが、どれ程傲慢であろうとも、関係無く。
人は、性善説ですか? 性悪説ですか?
神さまが、創って下さったこの身体・心。罪の中に生きる人は(アダムの罪以降は)、性悪説なのかもしれません。
人が、自分から神さまに繋がる事は、出来ないのであります。
しかし、神さまは。その様な者を、繋ぎとめて下さっている。
どんなに遠くに逃げようとも、隠れようとも、見つけて、とらえて下さる。
離れた者をも、愛しておられる。
信じる者にも、信じない者にも、キリストの十字架の御業は、働いている。
このお方によってのみ、人は、神さまの元に招かれるのです。
【ヨハネ3:16】この言葉の通り、信仰者は、信じて全ての人に伝えるのです。