使徒言行録 11章1-18節
高松教会 村上貴志
ペトロは、「天が開き、主の声を聞いた」のですが、それと同じには話さないのです。
伝える人たちへの配慮が必要だったからです。
既存の信仰を踏襲している。
信仰生活・日常生活の指針は、律法。
イエスさまは、律法を廃止されに地上に来られたのですが、ユダヤ社会に生きる人には、分離は難しかったのです。
新しく創られたこの神さまの家にも、古い掟が残っていました。
それで、良いのか?
イエスさまが、語られたことを思い出します。
【マルコ 2:22】
イエスさまの救いの御業は、律法と言う古い革袋には、収める事は出来ないのです。
新しい革袋に、変わる必要が有りました。
ペトロは、そのために、大胆に語るのです。「異邦人もが、神さまの言葉を受け入れた・恵みに与った。」
しかし、古い人たちは反発します。
イエスさまの十字架の救いに与りながら、イエスさまの言葉を、御業を忘れているのです。
異邦人であるシリア・フェニキアの女性が、自分の娘の悪霊を追い出して欲しいと願った時
【マルコ7章】イエスさまは、異邦人であっても、その信じる思いを伝える女性に祝福をお与えになられました。
主の弟子の群れである教会は、これを忘れたのでしょうか?
古い人のままなのでしょうか?
三つのぶどう園の譬えを、思い出します。
【マタイ20-21章】
正しい者。清い物のみを、口にしながらも、十字架の贖いに全てを委ねず、律法にこだわり、掟に縛られて語る言葉は、清い言葉なのでしょうか?
誰しもが、知らないうちに罪を犯しているのです。
「清い物・清くない物」それを、知ったところで、ヒトは、自身で清くなることは、出来ないのです。
神さまの御意志のみであります。神さまの愛のみであります。
「神が清めた物を、…」(9節)
もはや、全ての人が、教会に招かれているのです。