マルコによる福音書 16章1-8節
高松教会 村上貴志
数年前、ハッピー・イースターというフレーズが出てきた時、憤慨した私でしたが、なんとなく慣れてきました。
それは、聖書を知っているという高ぶりであり、救いに与ったという驕りでした。主を十字架につけた、ユダヤ人たちと同じであります。
【ルカによる福音書9章49-50】を読むと、どのような理由にせよ、イースターを喜ぶ人は、主の救いに到達するのだと思うのです。
「ハッピー・イースター!」何か、軽薄で、意味不明で、空虚だと思っていましたが、多分、日本中全ての教会が叫び声を上げた以上に、世に主の復活を伝えてくれたことでしょう。
聞いた人たちが、まことの恵みに、導かれたら幸いだと思うのです。
主が甦られた日の朝の出来事です。
喜びと落胆が、繰り返されます。
聖書に記されている人の歴史は、いつもそうであります。神さまと共にいた時には、大いなる恵みと祝福・喜びの中に有ったのに、…。
神さまからイエスさまから離れてしまった途端に、困難が訪れる。そうでは無く、祝福から離れてしまう事によって、そう思わされてしまうのです。
ノア・バベルの塔・アブラハム・ヨセフ・モーセ。出エジプト・士師たち・王たち・ヨナ・捕囚・神殿の再建・預言者たち。
主と共に有る時と、離れた時の落差は、大きいのです。
しかし、大きい故に、人は、「神さまと共に」この大きさを知ります。立ち返る人には、主の元に集まる人には、再びの導きと恵み・栄光が現されるのです。
三人の女性、墓の入り口を前にして、再び落胆が訪れます。
そのお墓には、主の姿は無かったのです。
御使いの姿を認めたが、「ここには、おられない。」その言葉が、心を締め付ける。
しかし、それは、「主は、復活なされた」という事でした。
聞いて、見て。私たちは、イエスさまが復活なされた事を信じるのです。