ヘブライ人への手紙2章 1~4節
高松教会 村上貴志
「天使たちを通して語られた事」これは、律法や十戒などの教えに象徴されます。「神さまと共にある私たちの姿」として、それを示してくださいました。神さまから離れた罪の中にある私たちは、願っていただいた、「しなくてはならない事」に目を向けたのです。目標となる姿を想像すると、出来るのです。しかし、守りきる事の出来ない時。抜け道を考え出しました。その結果。「神を誇るのでは無く、自らを誇る選ばれた(と思っている)民」が生まれました。「御国の歩みを進むのではなく、地上の歩みへ」と、押し流されてしまったのです。 律法も掟も、神さまからいただいた物でした。しかし、律法は、救いではなかったのです。人は、自分の中に有る掟を重視する事が出来るのですが、そのように導いて下さった「神さまの愛」は、容易く忘れてしまうのです。他者に対しての厳しさ、無関心さ。掟を重視する事が出来ても、自分を律することが出来ても、そこに「愛」が無ければ、それらの行動は、騒がしいだけの虚しいものとなってしまうのです。神さまは、「私と神さまとの関係」ではなく、「神さまの民・信仰共同体の兄弟姉妹」として歩むよう求められたのです。 では、救いはどこに有るのでしょう。「神の民」として歩む道はどこに示されているのでしょう。それは、私の手の中には、有りませんでした。大いなるしるし、不思議な業、様々な奇跡。それは、天地創造の時から地上に与えられている事であります。しかし、ヒトは、その事に無頓着でありました。どうする事も出来ないのです。祈るしかないのです。 故に、神さまは、その独り子を地上に送って下さりました。それは、裁きの警告では無く、「赦しの宣言」でした。主が、「神の国の一員となった」と、その証文(私)に裏書(証し)をして下さるのです。