ルカによる福音書 1章5~25節
高松教会 村上貴志
日々の生活の中で、「なんとなく、上手くいっていない気がする。何か気のせいなんだろうけど、人の目が気になってしようがない」という事は無いでしょうか?ザカリヤの心情は、そうであったかもしれません。神殿の奉仕。相応しい人が、信託によってくじで選ばれる。しかし、なかなか御心に適う時が来ないのです。周りの人たちも、ザカリヤの事を気遣います。「少しでも早く、彼が選ばれれば良いのに」皆で祈っていた事でしょう。
周りが、そう思って下さればくださる程、気遣ってくれればくれる程、「結果が出ていないザカリヤ」の気持ちは、重くなりました。「神さまに選ばれない」祭司にとっては、「大きな恥だ」と思ったからです。また、ザカリヤ夫妻には、神さまからの祝福のしるしとしての子どもが与えられていませんでした。これも、大変に心かき乱す出来事でした。
この恥の為でしょうか、ザカリヤは、神殿の聖所での奉仕の時にお会いした神の御使いとの出会いを誤解しました。「恥」を持った自分にとって、「とうとう訪れた、裁きの時」と思ったのです。ですから、「願いは聞きいれられた。喜び、楽しみとなる」そのような天使の言葉を受け取る事が出来ませんでした。絶望した者は、聖書に記されている幾つもの喜びと栄光の備えの出来事が、「まさか自分に与えられる」とは、思えなかったのです。
全ての事について、主は、明らかにされておられます。聖書を通して、教会を通して、信仰の証しを通して。それに、耳を傾けていないだけだったのです。それこそが、本当の「私の恥」なのかもしれません。「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネによる福音書9章)私に?私を通して?主の栄光が現わされる?「恥が取り去られた信仰者」には、必ず、その喜びが与えられるのです。