ペテロの手紙Ⅱ 1章16~21節
高松教会 村上貴志
信仰者は、み言葉によって変えられるのでありますが、変わった姿に注目するのではなく、その人を変えた御言葉に注目するように教えます。人を尊敬するのではなく、いつも神様の救いの現れであるイエスさ
まを、仰ぎ見続けるように教えたのです。
神さまを知らない人たち(無理解)の中で教会は、キリストの十字架の救いの業を語ります。語る人と聞く人の温度差。福音は耳に届かない言葉でした。
弟子たちは、主を通して与えられた神さまの御業を丁寧に解き明かします。そして、弟子たちが、「見たままに。聞いた通りの言葉」を、伝えたのです。
そのような中で、人々の関心を集める語り方をする人たちが、現れました。偽教師は、人の思いに迎合した事を語りました。心地良い言葉で。
多くの人たちが、「簡単に、自分の少しの努力で出来る喜び」惹かれました。
しかし、教会の伝える事は、「キリストの姿のみをお伝えしている・キリストを通して現わされた神さまの御業のみを現わしている。一つの付け加えも、人の知恵による解釈も無い」と、宣言したのです。
それが、神さまからの声で有ったからです。弟子たちは、山上の変貌の時に伝えられた神さまの言葉を、語ります。(マルコ9:2-13)「これはわたしの愛する子。これに聞け」
神さまの思いは、全てイエスさまが語られていると言う事を、弟子たちは、聞いたのです。主から伝えられる言葉。そこには、「神の愛」が満ち溢れています。
どのような修辞的な言葉であっても、「愛が無ければ、無に等しい」(第1コリント13章)のです。
弟子たちは、聞いている人たちが、「神さまの愛によって、神さまがつかわされた主イエスの救いの業(明けの明星の導き)によって、神さまの元に立ちかえる事ができるようになった事}以外に、喜びの道は、存在しないと語ったのです。